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2015年5月23日 図書新聞 モームの名作に新しい光をあてる 『人間の絆』や『月と六ペンス』などの作品で知られるモームには、「南海もの」あるいは「南海物語」と呼ばれる一群の作品がある。それらはおもに南太平洋のサモアやタヒチなどを舞台とする作品群であり、これまで中野好夫訳『雨・赤毛 モーム短編集1』(新潮文庫、一九五九年)、河野一郎訳『太平洋 モーム短編集2』(新潮文庫、一九六〇年)で読者に親しまれてきた。この二つの翻訳以降も、岩波文庫からは朱牟田夏雄訳『雨・赤毛他一篇』(一九六二年)、行方昭夫編訳『モーム短編集(上)』(二〇〇八年)も出版されている。 こうした名だたる訳者による翻訳があるのに、あえて新訳を出した理由について、「訳者あとがき」では次のような説明がなされている。一つはすでに出版されている訳書は、原書にある八編をすべて訳出したものではないため、重要だと思われる前書きと後書きをも含めて全作品を翻訳したこと。二つ目は既訳のほとんどの賞味期限が切れ、時代にそぐわなくなった箇所も散見されるので、「古い名作に新しい光をあて新しい革袋に入れて提供するのは意義がある」と考えたこと。同じような例として、私の知るかぎりコンラッドの『闇の奥』に関して、中野好夫訳(岩波文庫、一九五八年)を修正するかたちで、岩清水由美子訳(近代文芸社、二〇〇一年)と藤永茂訳(三交社、二〇〇六年)が出されたこおがある。 ところで、最新訳の本書には前書きの「太平洋」と後書きの「エピローグ」を含めて、ほかに「マッキントッシュ」、「エドワード・バーナードの凋落」、「レッド」、「小川の淵」、「ホノルル」、「雨」と六編の作品が収録されている。すべて南太平洋の島々を舞台とする短編である。イギリス文学のなかで「南洋もの」ということですぐさま想起されるのは、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の作者で知られる、ロバート・スティーヴンソンの『南海千一夜物語』(岩波文庫、一九五〇年)である。 このスティーヴンソンの諸作品と比べてみると、モームの「南海もの」には作者がイギリスの秘密情報部に所属する諜報員でもあったという自己経歴に関係するのか、収録作品の何編かに現地人にたいする白人の帝国主義的な視線が強く感じられるところがある。たとえば、サモアを舞台とする「マッキントッシュ」という短編では、老執政官のウォーカーと助手のマッキントッシュとの、おなじイギリス人同士の確執から自滅までが描かれている。現地人から銃で撃たれて死ぬウォーカーは、独裁的だが温情のある父性的な人物に設定されているが、その統治手法は植民地主義の支配イデオロギーである、「島の現地人を自分の子供と見なす」ことにあるからだ。 作品集の白眉はいうまでもなく「雨」である。娼婦のトンプソン嬢を更生させようとしながら、ついには肉欲に負けてしまう謹厳実直な宣教師のデビットソン。作品は陰うつな雨が降りつづくなか、宣教師の自殺までを描いているが、終幕でのトンプソン嬢の叫び、「あんたら男ってね、汚らわしい、不潔な豚だ!」という言葉が、いつまでも耳に残って忘れられない。訳文は明快で読みやすく、モームの語りの妙技をこれまでになくうまく伝えている。 |
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2014年12月7日 読売新聞
ロックバランシングの写真集である。聞き慣れない方もいらっしゃるかもしれない。形状に関係なく、さまざまな石を巧みに積み上げてゆくアートである。 ページを開くと、重力から解き放たれてゆくような、不思議な感覚に包まれてゆく。 これが人間の手で積み上げられたとは、俄かに信じがたい。しかしシンプルな手法で作られたからこそ、可笑しみと悠久に満ちた作品群は、人の目と心を釘付けにする力強さを持っている。 作者は三十歳のカナダ人男性。「わび、さび」にも精通し、作品との間に多くの哲学的相似点を発見するようになったという。ここに日本の影響が、と思うと嬉しい。 作品は危うく、不自然な形にも見えるが、成り立っているのはバランスが取れているからである。それは、いかにも自然な形であるように見せかけながら、実はまったくバランスの取れていない今の世の中に対する、問い掛けにも繋がるように思う。(近代文藝社、2500円) 評・唯川恵 |
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陸奥新報8月5日号
氏の詩編には難解な詩語はまず登場しない。隠喩や言葉遊びなどの策を弄することも一切ない。つまりこれはビート詩の詩作にのっとった方法なのだ。にもかかわらず意外に音域が広く、音感が鋭いのは、彼がミュージシャンでもあるからだ。 (中略) お金、あってら?/「大丈夫、稼いでるから!笑」/からだ、大切に!/「ありがとう!/おもうもな!」 厳しい現実社会の中で成長する我が子と、それを温かく見つめる家族の情愛が、津軽弁を詩の中に挿入することによって実に生き生きと表現されている。 これは新たな方言詩集の形と言ってよい。是非一読を。 (「朔」同人、日本現代詩人会会員、十和田市) 東奥日報8月22日号 ふふふ、と笑いながら読みすすむ。渋谷聡の新詩集「おとうもな」は、ともかく面白い。 津軽弁を多用した詩集である。その土地に根づいた言葉は、おのずから人肌のぬくもりを持っている。読者はそのぬくもりに触れて心をあたたかくする。 詩集の主人公は著者の二男坊である。叱られて門の脇にしゃがんでいた四歳のときを描いた「泣きの家出五十メートル」から、大阪で働いて親の健康も気づかうようになった「おとうもな」まで、わんぱく坊主の成長をはらはらしながら見守る親心がつづられている。 (中略) 難易度の高い方言にはルビがふられ、さほどでもないものはルビなしで「」に入れてある。 (中略) 方言のぬくもりもさることながら、詩集全体の面白さはその家族愛から発してるのである。 (詩人、日本文藝家協会会員、弘前市) |
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雑誌『正論』2014年10月号
色あせぬジョージ・オーウェルの警鐘 特定秘密保護法案や、集団自衛権を巡る与野党の論争を聴いていると、本書に引用されたジョージ・オーウェルの言葉が何ひとつ古びていないことに驚かされる。 (中略) 同時に著者はオーウェルの言葉を引き受けてこう綴る。「なぜ、人は國を愛し、武勲を尊び、闘争を欲し、自己犠牲を厭はぬのか。それは、人間が文化伝統の所産だからであり、その為なら戦ふ事も辞さぬような何かを見出しているからである。」(76頁) この様な言説は、左右双方から反時代的言説とされる。オーウェルが左派の偽善を許さず、ソ連全体主義の悪とも真正面から闘いつづけたように、著者も本書各所で、丸谷才一や井上靖らの俗物性、保守派と称される文化人や政治家の偽善を鋭く批判してゆく。 (評論家・三浦小太郎) |