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風を 待ったことはありますか? 私のこの本の中の緑の風を待つように、 努力の後で。 ざわざわと 庭の向こう側のロンタル椰子たちが おしゃべりを始めたら その方向へ顔を向けて待つこと1分。 なんともいえない涼しくて心地よい風がやってくる。 それまでの思考をじゃまする蒸し暑さや蚊の大群の攻撃など すべて忘れてその風の中で深呼吸する。 一涼の風は私のからだのすべてを満足させ 囁きながらいそいで海の方へ逝ってしまった。 一瞬間の白昼夢のように。 風を探す。風を待つ。 Raijua, Maret 2004 インドネシアでこんな会話をよく聞きます。 Mau ke mana? どこへいくの? Cari angin. 風を探しに。 暑かったら 探しに行くのです。 涼しい風を。 あとは待つのです。 努力の後、待ってみます。 私の人生せいいっぱい 私の能力を試しながら。 |
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チャン・イーモウは、中国第五世代といわれる映画監督のなかで世界的に最もよく知られる存在である。彼の「赤三部作」は、伝統的中国社会のなかで生きる女性の悲劇、エロティシズムを、色彩的な様式美と映像の構図に極限までこだわって、あますところなく表現した作品群である。
他方2000年代に入って彼が制作した「時代劇三部作」は、文芸映画から娯楽映画に逃避してしまった作品群として、多くの評論家に批判されている。しかし文芸映画と娯楽映画、映画史研究と映像論、及び作家論といった境界にこだわることなく、「赤三部作」と「時代劇三部作」、六つの作品を比較するならば、そこにチャン・イーモウの映画作品がもつ共通のテーマが浮かび上がってくる。本書では、チャン・イーモウの映画に出てくるヒロインと彼女たちに協力し、封建的秩序世界を打破しようとする “共犯者”の存在に注目し、チャンの映画に描かれた「ものがたり」を解読する。 |
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人は皆等しく救われるのか。悪人ほどなお救われると言うけれども、涅槃に辿り着いた人は、皆等しく仏の傍らに救われたのか。
功徳を積んで善行を施した人もそうではない人も、涅槃に居場所を得ても九品によりなお救いに上下があるとは誰も教えてくれなかった。 妻、小万の魂は何処の九品に帰されたのか。もし全ての魂に酔える余裕があるのなら、来世の再びの巡り会いを望むところだが今は命の途中。 小万の無念は如何ばかりか。その思いばかりに取り付かれて、一回忌を過ぎた今もなお君の名を呼び気配を感じ声を聞いて眠れぬ夜を過ごす。 恐らく僕は命が尽きるまでこの思いを抱き続けて歩いて行くのだろうと思う。 |
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あれから60年、世の中すっかり変わったが黒澤映画の存在感は全く変わらない。当時の他の日本映画と比べると分かりやすい。…君!何々しといてくれたまえ!とか、お母様 私何々しておきますわ!等という他の作品のセリフだけでも今聞くと何か可笑しい。だから今の映画もその大半は、50年後に見れば時代錯誤を感じて可笑しいに違いない。しかし黒澤作品は100年後も色あせないだろう。ベートーベンやゴッホの絵のように…
これまでに優れた芸術を残した人として、日本人映画映画監督としてはただひとりシェイクスピア殿堂に黒澤明の名前が登録されてるそうである。私は黒澤明が日本人であったことを神に感謝する一人である。2016年6月。玉利勝範 |